2003.3.16放送

街角のエコロジスト・三島次郎先生登場

 桜美林大学・名誉教授の三島次郎さんは、生態学や環境科学などの専門家であり、1960年代には南極地域観測隊員の生物担当として調査・研究にも従事されています。また現在は日本生態学会、日本麟翅学会などの学会に所属、さらに(財)日本自然保護協会の参与など、様々な団体の委員も務めていらっしゃいます。一方、自然や生き物に関する学問的に難しいことを、一般の人たちでも分かるように面白く優しく解説する先生として、講演会などでも大変人気があるんです。
 今週はそんな三島さんをお迎えし、著作『街角のエコロジー〜見えない自然のはたらきを見る』にならい、身近な自然や生き物に目を向け、“街角のエコロジスト”になるためのヒントをたくさん話していただきました。


●ザ・フリントストーン的には“街角のエコロジスト”と呼ばさせていただきたいと思っております、三島先生。去年『街角のエコロジー〜見えない自然のはたらきを見る』を出されていらっしゃいますけど、すごい分かりやすいのと、目から鱗の話がいっぱいですね(笑)。
「そう言っていただけると、ありがたい感じがするんですけど(笑)」

●知っているようで知らないことって、すごく多いんだなって。
「それはこの本を書こうと思った時にも、切実に感じていました。自然について詳しくないと、やっぱり自分の価値観が入って眺めてしまうと。相手のことを考えられなくなる、そういう意味では身の回りの自然をよりよく知って欲しいと、そんな思いで書いたんです」

●この本を読むことによって、ちょっと身の回りの自然を違った目で見ることができるようになると。
「ええ、昔からよく言われていますけど、心がそこにあれば見えないものも見えてくる、聞こえないものも聞こえてくる、そんなキッカケを作りたいと、そんな感じでしたね」

●50点のエッセイが掲載されているこの本、いくつかピックアップしながら伺っていきたいと思うんですけど、何よりも私、最近シクラメンを見ると豚の饅頭にしか見えなくなって(笑)。
「(笑)。私が呼んだ名前じゃありませんから、勘弁して下さい! でも、よく昔の植物図鑑にも、別名・豚の饅頭という名前が付いていますけども、これはシクラメンあるいはサイクラメンをよくご覧になって、できれば花が終わってから来年に向かってもう一度植え替えられると、豚の饅頭という名前が「なるほどな」と、必ずお思いになられるだろうと思うんです。あの大きな饅頭型が下に付いていまして、「よく黒い豚の饅頭だと言ったものだ」と。昔から人々の関心を集めていたと思われまして、いろんな名前が付いていますので、お調べになったり触れ合うときっと面白いと思います」

●なるほど。
「まだまだ豚の饅頭というのは入り口の方でして、植物図鑑を少しご覧になると「あれ?こんな名前がついていたんだな」というようなものがあります。なんとなく今どきこんなふうな名前は世間様では通用しないというような、ママコの尻拭いとか(笑)、よくこんな名前をお付けになったという、昔の先人達に「なるほど、よく見入ったな」と。名前は適切ではないと思いますけど(笑)」

●(笑)。でも、そう考えると見方が違っていたような気がしますね、昔の先人達は。
「あるいはよく見ていたという感じはしますけども、植物の性質なり、一面じゃなくて全てをよく御覧になっていたっていう感じはします。それだけ身の周りの植物と動物、人々との距離が近かったということが言えると思います」

●また、この中で実は知らなかったんですけど、レンゲの花が田んぼに咲くのは意味がある?
「それ、咲かせたのは、ということですね」

●あ、咲かせたのには意味がある、これは私全く知らなかったんですが。
「楽しみのために、一面田んぼを彩ったわけではありませんよ。御承知のように、豆科の植物というのは根っこに窒素を固定する固定菌がありまして、ですからそれが入ってくると窒素が入ってきて、窒素肥料の補いになると、こういう一得がありまして」

●そう考えると、私は、何で田んぼにはレンゲの花がいつも咲いているんだろう、同じ季節になるということで、なんで?って疑問に思ったことすらなかったような気がして、先生の本の“肥料を作る植物”という章その部分を読まさせていただいた時に、「あ、考えてみたら何でだったんだろう?」って(笑)。
「まあ、植物もなかなかでして、肥料を作る植物もあれば植物は動物と違って噛み付いたり、敵を追っ払ったりすることはできないわけですから、お互いに非常に巧みにいくつかの化学物質を出しながら敵を排除すると、そういうことまでできる植物も沢山います。動物も長い進化の歴史がありますけど、植物も同じくらいの進化の歴史を背負ってこの地球上にいるわけですから、そういう目でご覧になると「植物、お前もなかなかだ」と、こういう感じで見えると思うんですけどね」

●「綺麗だなー」だけじゃなくて「頑張って、よろしくね、良い土作ってね」とかっていうような見方に変わりますよね。このご本、“命あるものとのつきあい”という章があって、偽物や疑似体験の話があるんですけど、最近、観葉植物のいわゆる偽物、多いですよね。お部屋に飾るのに。
「まったく。色々、非常に上手く出来ていましてね、私なんて触ってみないと本物かどうか分からないというようなのがたくさんありますけど、偽物と本物って決して同じではないと。例えば偽物というと言葉が悪いんですけど、生きてるものにはちゃんと命があると。大切にしていれば、それなりに活き活きとしているし、いつかは消えて無くなると。あるいは樹木みたいなものでしたら5年10年、場合によっては1000年見えない働きといいますか、二酸化炭素を吸収し酸素を出すと。あるいは地球の温暖化を防止するという役割を大きく果たしていて、これは偽装というと変ですが、偽物というものではその働きはなかなか期待できない」

●また疑似体験という意味では、私もずっと思っていて、先生も書いて下さっていて「あっ!やっぱりそうか!」ていう、たまごっちの例が出ていましたけど。
「ちょっと昔の流行ですけど(笑)」

●実は、最近聞いた話で、ある子供さんが、ワンちゃんが亡くなった時に「お母さん、動かなくなっちゃったから電池入れ替えなきゃ」って言ったっていうのを聞いたときに、「あ、そういう目で生き物を見ているんだ」って。私達には考えられないことだったんですけど、時代ってそうなってしまっているのかなって。
「この頃はITの発達によって様々なそういうことが世の中に出てきて、そのものが悪いとは申しませんけど、これも生き物の偽物みたいな物との付き合いというのも人の心を和ませるものだと思いますけど、最後に死んでしまうということがありませんし、あるいは体験の中で、ちょっと別な事かも知れませんが、車の操縦装置とか、飛行機のオペレーションの練習装置とか、シュミレーターというんですか、座席に座って練習さえすれば車も飛行機も運転できるようになる、確かにそうだと思うんです。テクノロジーといいますか、技術はそれによって進歩させることが出来ると思いますが、私なんかが1番大切だと思うことが学べないんじゃないかなと。たとえば飛行機の操縦装置で操縦をしていて「あ!失敗しちゃった!」画面がドカーン、×、リセット、もう一回やり直しと、そうやって技術を磨くことが出来ましょうけど、もし本当だったら頭の上からガソリンでも降ってきて火を吹いて「お前、死んじゃうよ」と。そうなると許されないと思うと震えながら操縦桿を握ると。おそらく初飛行では、私は飛行機動かせませんけど、そういう緊張感ってこれこそ最も学ばなければいけないことではなかろうかと思うんですね。操縦、運転の技量、それに加えて失敗が許されない世界というものを、本物の触れ合いによって得られることだと」

●その通りですよね。
「そして、だんだん知識と偽物との触れ合いが増えてくる、これもよく言われることですけど、親子揃って牧場に出ていったと。初めて牛のいる世界に行って子供さん達が「パパ見てよ!牛がいるよ!」と生まれて初めて見て感激するわけです。その後「絵に書いてあるのとソックリだ!」と。牛がソックリなわけではなくて、絵がソックリなんですけど(笑)。例えば寒さの中で震えながらゴマフアザラシが北の海にいますと。やっぱりテレビの画面で見てその生物は知っている。でも、その生き様とその世界を体験して欲しい、そんな気がします。あっ、そんな寒いところの生物だったのかと、そういう原体験を大切にしようと。よく言われることですけどね」

●頭の中では分かっていて、心や体がついていかないっていうことがありますからね。
「南極のペンギンを見ていても、彼らの生活を理解することは出来ない、と」

●先生の『街角のエコロジー〜見えない自然のはたらきを見る』の本の章“ドブの中の自然-都市の生態系を考える”で、「ときどき自宅近くのドブのなかを覗き込んで、1人ほくそ笑むことがある」っていう文章から始まったときに「はい?」って思ったんですけど(笑)。
「覗き込んでいると、近くの人が「何か落されましたか?」って聴いてくださる方がいるんですけど(笑)、落したわけではなくて、ドブの中にも今はそういう動物すら少なくなってしまいましたけど、沢山の生き物が住んでいます。例えばユスリカ、アカムシといいますがイトミミズは、金魚の餌として金魚屋さんでしか見れなくなってしまいましたけど、そんなようなモノがじっと見ていると静かに浮かび上がってきたりして、「君たち頑張っているな」って。もちろん人間にとって好ましくないかも知れませんけど、そういう生きものたちがもし、固形物やご飯粒なんかが流れてくればそれを餌にして水がキレイになると。ですからドブの中に虫が湧いたって言ってドブさらいをしてしまえば、やっぱり自浄作用というかキレイにする作用が失われてしまうと。もっとも、末端でもって全部水処理をすればいいという考え方も当然ありましょうし、ユスリカですと、夜、明かりに集まるんで、良くないという考え方もありましょうけど、一つだけ、ドブの中にも生き物がいるんだよ、と。もちろん、そういう生きものたちがせせらぎみたいなドブになったとしても「なに、この自然破壊?俺達どこに住めばいい?」ってこんなふうに嘆くことでありましょう、と。」

●なるほど。
「同じようなことでは、よく砂漠の自然というのも取り上げていて、砂漠というようなあんな生き物がいないような所でもよく適応した生き物がたくさん住んでいます。かわいそうだからって水を撒いてあげたらこんなジメジメしたところ住めないと、ここの生き物が生きていくことが出来なくなるでしょう、と。だいぶ前の話ですけど、南極でペンギンの観測、調査をしたことがあるんですけど、寒い、氷点下の海に平気で飛び込みます。で、寒いので温めてやったらと。悪い冗談ですけど、でも彼らにとっては住みよい、天国だと、こんなふうに思っているだろうと思うわけです」

●なんか人間って、人間の尺度で物事を計り、それに合わせるように自然をいじっているじゃないですか、この本の中でも「あー、そういう考え方って確かにあり、私はそういうふうに思っていなかったな」って。“森は荒れている”という章の中で、里山は自然林に変化していく過程という考え方もあるっていうような・・・。
「もちろん、人間の時間と自然の時間って大きなズレがありますから、長い長い年月は必要だと思うんですけども。仮に、里山って言うのは自然と見なす人もたくさんいらっしゃるでしょうが、どちらかといえば薪をとったり、落ち葉を集めたり、そんなような必要物の生産の場だったと。それに適した生き物も増えてきたということもありましょうが、もし今いらなくなったら「君たち勝手にやりなよ、自然に返してあげるよ」という見方も必要なのかなと思うんです。モノの見方によれば、どっちが美しいかという価値観の違いもありますでしょ。明るくなった林の方が気持ちいいという人もいれば、たくさんの植物が茂ってウッソウとしてだんだん良くなった、と感じる方がいても不思議はないと思うんですけど。ただその時一つだけ問題なのは、結構長い年月、人がそこから様々な資源を採ってきて、それなりの自然の形というのが出来上がっていて、例えば早春のスミレの仲間や、明るい落葉樹林が好きな生きものたちが、蝶々その他も含めて、里山特有の生物達が数を増やしたと。もちろん人間が里山的管理をしても、そう何十万年もあるわけではありませんから、それによって人のおかげでもって安住し、数を増やした生き物というのは確かにいるわけで、放置したらそういう生き物はだんだん数が少なくしまうのも事実でしょう。この点も考えなければ、人が手を加えなければ自然が荒れてしまうとしたら、それこそアマゾンの熱帯雨林も白神産地も、地球上で最も荒れた森だという評価をしなければならなくなっちゃいますから」

●自然の名の元に、不自然が行なわれている、っていうようなフレーズや不安定な安定という言葉が先生の本の中で出てくるんですが、その相反するもので、確かに、自然という名のもとに不自然はかなり行なわれているなと。
「これは非常に残念なことでもあって、僕たちの心が自然から離れている証拠じゃないかと思うこともたくさんございます。不安定な安定なんて、例えばごく身近でも海岸に行ってみると、ある時間は海になっていて潮が引けば陸になると。こんな大きな変動というのは全く他では見られないでしょうけど、そういうところを1番素敵な住み場所だと思っている生き物もたくさんあります。あるいは川の流れが極めて安定してしまうと、むしろたまに洪水がでたり、上流から土石流が流れて河原が出来たり、こんなふうな所だけ大好きだという生き物もたくさんいます。これこそ、不安定だけど安定の生活に役立つと、こんな見方が出来るでしょう?」

●自然って何なんだろう? 自然の解釈といいますか、自然という言葉が意味するものっていうのは?
「ただ単に自然というよりも、生物的自然という言葉に置き換えたほうが、むしろ分かりやすいのかもしれませんけど、考え方はそんなに難しいモンではないと思うんです。例えばある街でツバメがいなくなったから、ツバメを取り戻そうという方がいらっしゃったとして、どうしたらツバメがこの街に帰って来るのか?と。で、いろんな研究をして巣作りの場所も無い、車が喧しすぎる、その他理由が色々挙げられる中で、餌があるだろうかと、そうなるとツバメの餌は何か?って考えなくても、御承知のように生きた昆虫を食べていると。たくさん蛾が集まったのに、今はいなくなった。「そうだ、この街にツバメの餌がいなくなった」と言ってツバメを呼び戻す会の人達が街角とかに汚物を置いて、ハエが出るように、なるべくツバメが喜ぶように、毛虫がたかるような木を植えたら、呼び戻せるって多くの人が言ったけど、虫を増やせとは誰も言わなかったと。でも、よくよく考えてみるとツバメが生きていくためには虫がいないと生きていけない、これはトンボもカエルも同じですけど、それじゃあツバメが食べる虫がいても共存しようと。1枚の網戸が、昔だったら蚊帳が、自然と虫との共存を上手くやってきた。皆殺しにする必要はないだろうと。そうすると全体が上手くいくと。私達が好きなものだけ大切にするとそれはとても不可能だと」

●ちょっと考えるとすぐ分かるんですけど、でも、なんかそこが人間のエゴなんでしょうか、やっぱり虫は、いないほうがいいよなって思ってしまうんですけど(笑)。
「嫌いな方多いですよね(笑)。これは私の専門の分野ではありませんけど、人に聞いたところによると人間、生物もそうですけど生まれて育っていく間に、ちょっとした経験やサディスションがあると思い込んじゃうというのがあると思うんです。例えば子供達は割合平気なんですよ。トカゲなんかを捕まえても「ママ、見て!」って。そうするとお母さんは、「そんなの早く捨ててきなさい!」と。それだけで、こういうものは気持ちが悪いものだと言うふうに心の中に刻み込まれてしまう、それは理屈ではなくて嫌な物は嫌っていう面がありましょうから自然と仲良くするというのは小さいときから始めたほうがいいと思うんですけど。もちろん、怖いものや危ない生物っていないわけではありませんけど、確立はごく少ないということも確かです。気を付けてさえすれば」

●そして今回、ザ・フリントストーンでは先生のことを“街角のエコロジスト”というふうにお呼びさせていただいて、御本も『街角のエコロジー』ということもあるんですけど、例えば今日番組を聞いて下さっている全ての人が“街角のエコロジスト”にはなれるわけですよね?
「もう、明日からでも自然に対する関心を高めていただければ、それぞれの方が“街角のエコロジスト”として周りを見ていただけるだろうと、こんなふうに期待しています」

●今日は本当にどうもありがとうございました。
■ I N F O R M A T I O N ■
 今週は“街角のエコロジスト”桜美林大学・名誉教授の三島次郎さんにお話をうかがいました。

・三島さんの著作の御紹介
○「街角のエコロジー〜見えない自然のはたらきを見る
全部で50編のエッセイが掲載されており、各エッセイのあとには自然観察のヒントとなるチェック・ポイントも書かれているので、それらを参考にしながら、皆さんもぜひ“あなたの街角”のエコロジストになって下さいね。 玉川大学出版部/本体価格1700円
で発売中。

 また三島さんは、同じ玉川大学出版部から
○「生物誌からのエコロジー
という本も出されています。こちらは本体価格3200円です。

・桜美林大学・オープン・カレッジの春期講座の御紹介
○「生態学から見た自然〜自然を友とするために」
日 時
5月9日から5週に渡り、毎週・金曜日の午後2時30分〜4時まで。
場 所
新宿駅・南口・駅前の 桜美林大学・新宿キャンパス
受講料
全部で1万1,000円。
      定員の20名になり次第・締め切るそうなので、受講ご希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
お申し込み、および、お問い合わせ
・桜美林大学・新宿キャンパス事務局 / 03-5304-5381

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