2007年3月25日

飯倉照平先生に聞く「博物学者・南方熊楠の足跡」

今週のベイエフエム/ザ・フリントストーンのゲストは飯倉照平さんです。
飯倉照平さん

 世界的な博物学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす)の研究で知られる、東京都立大学名誉教授・飯倉照平(いいくら・しょうへい)さんをお迎えし、自然保護運動に命をかけたという南方熊楠の言動や活動に迫ります。

南方熊楠とはどんな人?

『南方熊楠〜梟のごとく黙座しおる』

●先生は昨年の11月にミネルヴァ書房から「南方熊楠〜梟(ふくろう)のごとく黙座しおる」というご本を出されているんですけど、今、なぜ南方熊楠なのかというと、今年が生誕140周年で、去年、和歌山県の熊野古道が世界遺産に認定されたということで、熊野古道に深く関わりがある南方熊楠という人物にスポットが当たっているわけなんですけど、ズバリ、南方熊楠とはどんな人物なのかを、簡単にとはいかないと思うんですけど(笑)、なるべく簡単にご説明いただけますか?

「なかなか難しいですけどね(笑)。常識的な言い方をすると努力の人ですね。朝から晩まで何かをやっていないと気が済まなかった人で、やることが桁外れというか、普通の人には出来ないようなことを、昼にはこれをやり、夜にはこれをやりっていう形で生きていた人だと思います」

●熊楠さんの今に残る一番の偉業というのは何になるんですか?

「一生のうちで一番時間をかけていたのは、やはり植物の採集だと思います。ただ、その仕事にしてもそれを普通の学者のようにまとめて本を出すとか、そういう形にはならずに、熊野古道云々というときに、熊野にある植物のことをよく知っていたんですね。だけど、先ほども言ったように自分で本を書くということはしなかったので、たまたま神社合祀反対運動のときに、熊野の自然がいかに大切かということを書くために、自分が今まで採集して歩いたところにあった植物のことや、『こういうことがあるんだよ』ということを書いたんですね。ですから、神社合祀反対について書いたものはたくさんあるんですけど、その中に散りばめられている色々な植物に関する知識っていうのが相当なものなんですね」

●また、日本に限らず、アメリカやイギリスにも渡って、ずっと研究を続けられて、日本人として初めて科学雑誌「Nature」の中に論文を投稿しているそうですね。

「ええ。アメリカに6年間ほどいるんですけど、最初にニューヨークのビジネス・カレッジといって、留学した人達が最初に入って英語を覚えるようなところに何ヶ月かいて、そのあと、ミシガン州に行って農科大学に入ったんですけど、これも何ヶ月かでやめてしまったんですね。それで、大学とは縁がなくなるんですけど、そのあと、ミシガン州のアナーバーというところにミシガン大学という一流の大学があって、そこには日本人の留学生もたくさんいたんですけど、そこの留学生達と飲んだり論じ合ったりしながら(笑)、やがてそこで植物採集を始めるんですね。アナーバーの近くにヒューロン川という川があって、その川沿いのところを毎日歩き回りながら、色々な植物を採集していました。その植物採集で、人に対して『こういう発見をしたぞ!』と言いたい気持ちが生まれてきて、アメリカのそういう方面のことをやっている人との文通なんかを参照にして、フロリダ半島のジャクソンビルというところに行くんですね。そのあと、さらに西インド諸島にあるキューバの島に渡ったことは確かなんです。もっと色々なところに行ったのかどうかが実はハッキリしていないんですけど、それも基本的には人に『こんな発見があったぞ!』っていうことを言いたいような植物を探しに行ったと思うんです。地衣類という苔のようなものを、アジア人がこの地域で初めて行なった発見だというような発言を後にもしていますけど、本当はそういうものをいくつも採集した上でイギリスに乗り込みたいという感じだったみたいですけどね」

●南方熊楠さんというのは本当にお酒が大好きで、どこに行ってもお酒で友達にもなれば、トラブルも起こしているような部分もあったそうですね(笑)。

「シャイで恥ずかしがりな部分があって、お酒を飲まないと心打ち解けあって話せないとか、人との付き合いがあまりうまくいかないようなところがあって、それに強い個性だったものですから、なんとなく色々な友達と和歌山中学という旧制中学に入って色々な人と知り合うんですけど、そこでの付き合い方の体験からお酒を飲んだりすれば付き合えるし、それから自分の中に鬱屈していて、なかなか言葉にならないものを吐き出すことができるという体験を積んだんですね。これが、日本に帰って50歳前後になるまでは、かなり強烈な形で続くんですけどね」

生きていく手段として植物採集をしていた

●南方熊楠はアメリカでは独学で動物学の研究をし、帰国後も勝浦、那智などで研究を続けたそうなんですけど、主に粘菌の研究にこだわった理由というのはなんだったのでしょうか?

「粘菌はアメリカにいるときもいくつかは採集していて、そういうものは知っていたんですね。で、日本にいる友達に手紙を出したときにそのことを書いたりもしているんですよ。粘菌と言うのは非常に小さな生命体で、熊楠は動物だと断ったりしているんですけど、生物の世界では動物と植物の中間といわれて、あるときには生きて移動できるし、あるときはキノコのように胞子ができて定着してというように、非常に小さな形でそこに生命があり、それが複雑な形になる。それから、比較的倍率が低い顕微鏡で観察して調べられる。それから全体の品種というのも割と少ないそうです。だから、逆に新しいものを見つけやすいというのもあったそうですけど、実際には新しい品種というのも数種くらいで、あとから出てきた色々な人が『いや、実はこれはこっちだ』とか言ったりして、熊楠が本当に発見したと認定されている品種は少ないんです。それにしても、何千という標本を残していまして、それが科学博物館にそっくり納められていて、整理されているんですけど、やっぱり粘菌というものが面白かったんだと思いますね。ま、今は変形菌として生物学では扱っているようですけどね」

●菌の研究を通して、宗教学的というか人生哲学的なことを感じていたのかなというような気もするんですけど、その辺は先生から見ていかがですか? 深読みしすぎでしょうか?(笑)

「(笑)。アメリカで学校が居心地悪くてやめて、植物採集するんですね。イギリスでは最後に図書館に通って本を読むことで満足しているんですが、日本に帰ってきたところでやる場所がない、やることがないという状況で、那智、勝浦での植物採集を2〜3年続けるんですね。ともかく、三十何歳という時期にイギリスから帰ってくるんですけど、どこの大学もちゃんと出ていないのでどこかに就職というわけにもいかないですし、家に帰ってくれば弟が所帯を持って酒屋をやっているので、行く場所がなかったんですね。そのときに『どうしよう!?』と思って、アメリカの後半でやったように、今度は和歌山を舞台にして植物採集をしようとするんですね。それには、江戸時代に歩いて調べた学者がいるんですけど、あまり植物関係の人が継続的に調べたことのない熊野、今でいう勝浦とか那智あたりへ行こうと思ったわけですね。人生の中で一番落ち込んだようなときに、植物採集をやっているんですね。だから、ある意味では動物や植物の採集をすることが、熊楠自身が生まれ変わるというか、そこで落ち込みそうな自分を鼓舞していく、生きていく手段としてそういうことをやっていたところがあるんですね。だから、逆にそれを整理して、植物学者として名をあげるってところへ行く前に、自分としては採集して歩いていれば、生きているという実感があったんじゃないですかね」

●もう一歩貪欲になっていれば、植物学者としてもっと名をはせていたのかもしれませんね。

「そうかもしれませんね。今、大学にいる先生達や助手の方が本を出す仕組みっていうがちゃんとしていますけど、熊楠のように和歌山県のようなところにいて、むしろ大学の先生っていうとはじめから毛嫌いして、熊楠の方でも『ろくでもないやつだ』というふうに思っていましたので、付き合う人達も比較的、趣味的に付き合っている人達が多かったので、熊楠の仕事を科学的に認めて、学者としてというふうにはなかなか動いていかなかった。だんだん中国との戦争が広がっていくっていうのが晩年でしたから、時代も悪かったんですけどね」

熊野古道の保護に一役買った南方熊楠

飯倉照平さん

●昨年11月にミネルヴァ書房から「南方熊楠〜梟(ふくろう)のごとく黙座しおる」というご本を出されているんですけど、そちらに本当に詳しく書かれているので、南方熊楠のことを詳しく知りたい方は読んでいただきたいと思います。そんな熊楠が、先ほどお話にもあったように神社合祀反対運動というのをやっていますけど、神社合祀というのは具体的にどういうことなんですか?

「非常に素朴な説明からしますと、もともと江戸時代とかもっと前から、神社というのはある地域社会で、例えば漁師さんなら自分達が漁から無事に帰ってこられるように、お祈りをする神社が自分達の集落にあるとか、それから新しい土地へ移って開拓して、農作をやる人達にとって、自分達の集団の守り神として神社があったんです。もともと、江戸時代にそういう形でできたものが、日本では明治政府ができてから、神社っていうのをもっと整理して、自分たちが統治しやすい形にしたいっていうことが1つと、もう1つは昔、自然にできた集落をかなり大きく合併して、大きな町、大きな村を作るわけですね。明治年間にかけてかなり色々な段階でやっています。そうすると、新しく3つ4つの村が合併したときに、そこにいくつも神社があっては困ると。で、この町に1つにすればそれに対しては政府もいくらかは補助をするというようなことを言って、『こっちの神社はつぶせ』、『こっちの神社と一緒になれ』というようなことを色々やったわけですね。
 で、南方熊楠は早い時期からこれに関係していたわけじゃないんですよ。でも、自分が採集している粘菌とか、他の植物もそうですけど、大体そういう珍しいものは神社にあったりする。昔から神社にある木を切るとか、植物を採るっていうのは無造作にはできない。むしろ、大事に保存するという信仰上の理由があったわけですね。そのために、たとえ珍しいものでも神社にあれば、そこで生き残るということがあったのに、熊楠の場合、具体的に粘菌は腐った木にできるので倒れた木にできることが多いんですけど、それでも、その神社で採ったということを記録しては、イギリスの粘菌の学者に送って、認定してもらうということをやっていて、珍しい種類を見つけたりしていたんですね。で、1〜2年してからイギリスの学者が『これは珍しい種類だった』っていうことを言ってきたときに、行ってみると自分が採集した神社が合祀されていて、神社としては成り立たなくなっていたので、木がほとんど切り倒されていたという目に遭う。で、そういうことがいくつか続いて、物を書いたり、言論活動を行なうことで、神社合祀に反対するということを始めるんですね。
 ちょっと始めた時期が遅れていたので、和歌山県全体ではすでに実際の合祀は進んでいたんですよ。もう、数分の一くらいに少なくなってしまっていたけど、最後になって熊楠が登場したっていう形で、熊楠が反対したことで、守られた木があちこちにあります。熊楠の神社合祀反対運動が本当に役立ったかどうかっていうのは難しいところなんですけど、ただ、神社合祀に反対する文書を書くっていうところが熊楠の非常に大きな意義だったんですね」

●去年、熊野古道が世界自然遺産に認定されて、南方熊楠という人にさらにスポットが当たったわけなんですけど、先生から見て、やはり熊野古道というものに対しては、熊楠の功績がかなり大きいと言えますか?

「その辺は難しいところですけど、熊野古道というのは、非常に古くから信仰にとって、当時の京都のような都に住む人にとって、神の住む世界というか、熊野へ通うことで、自分達がどう生きていくかとか、そういう問題を解決するとか、信仰上で非常に重要だったんですね。そのために熊野全体が1つの神社というか、信仰上の聖地だったという伝統が長くありましたし、土地も非常に険しい場所だったので、熊野古道が自然遺産の意味があるとすれば、そういう古い宗教上の歴史だと思うんですね。すでに都から地位の高い人達が通うという習慣は明治には失われていますけど、具体的にそこに何があるかっていうことを、熊楠は同時代的に自分で歩き回って知っていたので、そのことで残っている信仰上のもの、あるいはそれによって守られてきた植物なり動物なりに『こういう大事なものがあるよ』ということを、神社合祀に反対する文書の中で訴えたところがありますね。で、もちろん神社合祀がいかに自然破壊に繋がる側面を持っているかということを強調したわけで、そういう意味では熊野古道という遺産を守ることに手を貸したと言えると思います」

エコロジーの先駆者でもある南方熊楠

飯倉照平さん

●南方熊楠という人物は先生から見て、どういう存在ですか?

「これは難しいところですけど、私が30代の後半に『南方熊楠全集』の校訂の仕事で、引用されている中国の本を当たることを頼まれたときは、ちょうど大学紛争の時代でして、やはり、反体制的なものに対する魅力を感じているときだったんですね。で、熊楠は直感的には明治以降の日本の進め方、だんだん軍事強国になっていく前の段階で、そこに危険を感じ取って生きていた人なんです。見方によっては何でもかんでも反抗していたように見えますけど、自分がこういうことをしようと思っても必ずしも実現しなかった時代に、熊楠という人は怒鳴ったり酔っ払ったりしながらも(笑)、何とか自分がやりたいことに近づこうと、泥まみれになって生きていた人なんだなぁという気がしますね」

●それが先生が最初におっしゃっていた「努力の人」っていうところに繋がるんですね。そして、その結果、今の時代から見ればエコロジーの先駆者だったり、自然破壊を食い止め、日本の豊かで美しい自然を守る手助けをした人としても名前が残っているわけですけど、自然保護という分野において南方熊楠はどのような存在だったと思いますか?

「エコロジーっていう言葉も今では広く使われていますけど、もともと植物の生態学を指す言葉なんですね。熊楠はアメリカにいるときも、日本へ帰ってからもそうなんですけど、実際に植物が生えている場所をたくさん歩いて、ある植物が生きていくためには何もないところで生きるわけにいかないので、みんな土地の状態とか他の植物との関係があるわけですね。つまり、生きている場所にある植物を捉えるっていうのが生態学の考え方だと思いますけど、イギリス辺りでもそれが広がったことで、逆に環境全体を大事にしていかなくちゃいけないっていうことになったと思うので、熊楠は本質的なところでは今の自然保護に繋がるようなことを、現実に自分で考え、行動していた面もあると思うんですね」

●そういう意味でいえば、神社合祀反対運動で守られた鎮守の森だったり、熊野古道が世界自然遺産に認定されたことっていうのは、南方熊楠の功績がちゃんと引き継がれているというか、今、認められたと言えるかもしれませんよね。

「ええ。言えると思いますね。ただ、それが熊楠の全部の仕事ではなかったというところが、熊楠という人の広がりのある部分じゃないでしょうかね。色々なことに手をつけていて、昔話や説話の研究の世界でも、独自な見解を発表しているところがありますからね」

●先生の本を拝見していても、熊楠という人は本当に色々なことをやっているので、今回は自然という部分にスポットを当ててお話をうかがったんですけど、詳しくは先生の本を読んでじっくりと「南方熊楠とは?」というのを考えていただければと思います。飯倉先生は今後も熊楠の研究は続けられるんですよね?

「ええ。和歌山県の田辺市にある資料を目にするところまでは共同作業でやり、最後の本にするまとめ役ではかなり深く手伝ったのですが、色々やりかけている仕事があるので、まだやることになると思います。ただ、私自身はもう少し中国の民話や説話のことをやりたいなという気持ちがあります。いつまでできるか分かりませんけどね」

●中国の民話はフリントストーンもかなり興味があるところなので、次回は是非、そちらの方でもお話をうかがえればと思います。今日はどうもありがとうございました。


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■東京都立大学・名誉教授「飯倉照平」さんの最新刊

南方熊楠〜梟のごとく黙座しおる
ミネルヴァ書房/定価3,150円
 19世紀から20世紀にかけて博物学者として活躍した南方熊楠の研究で知られる飯倉照平さんの最新刊。自然保護運動の先駆者と呼ばれ、世界自然遺産に認定された和歌山県の熊野古道に深く関わりを持つ南方熊楠の日常を年代記風にまとめたもので、今後も現われることはないであろう偉人であり奇人でもあった南方熊楠の足跡を知るうえでうってうけの1冊。
 

・ミネルヴァ書房のHPhttp://www.minervashobo.co.jp/

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オープニング・テーマ曲
「ACOUSTIC HIGHWAY / CRAIG CHAQUICO」

M1. SAKURA / いきものがかり

M2. TUBTHUMPING / CHUMBAWAMBA

M3. ONE AND ONLY / MARY BLACK

ザ・フリントストーン・インフォメーション・テーマ曲
「THE CARRIAGE ROAD / JIM CHAPPELL」

油井昌由樹アウトドアライフ・コラム・テーマ曲
「FLASHES / RY COODER」

M4. ALL TOGETHER NOW / THE BEATLES

M5. OUT OF THE WOODS / NICKEL CREEK

M6. STAY GOLD / STEVIE WONDER

エンディング・テーマ曲
「THE WHALE / ELECTRIC LIGHT ORCHESTRA」
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