2011年8月27日

探検家・関野吉晴さんの「新グレートジャーニー」!!

 今週のベイエフエム/NEC presents ザ・フリントストーンのゲストは、関野吉晴さんです。

関野吉晴さん

 ドキュメンタリー番組「グレートジャーニー」で知られる探検家の関野吉晴さんは、東アフリカに誕生し、そこから世界に拡散していった人類の足跡を、人力だけで逆に辿る旅「グレートジャーニー」を、足掛け10年の歳月をかけ、2002年2月に終えました。そして2004年7月から、今度は日本人の来た道を探る旅「新グレートジャーニー」に挑戦。その旅も今年6月に無事に終了しました。
 そんな関野さんは現在、武蔵野美術大学の教授でもいらっしゃいますが、今回、関野さんを大学の研究室に訪ねて、お話をうかがってきました。

日本を見つめ直すための旅

※現在、武蔵野美術大学では「新グレートジャーニー」の中から海上ルートの旅で使った船や道具などを展示した「海のグレートジャーニー展」を開催していますが、その展示会を見た後に、関野さんの研究室でお話をうかがいました。

「アフリカで人類が誕生したことを否定する人は、真面目な研究者の中ではいないんですね。その中で一番遠くまで行った人が、シベリア・アラスカ経由で南米の最南端まで行ったんですが、それを逆ルートで辿る旅は既に終わっています。 その旅の前に、実は南米に20年間通っていたんです。その間に、アマゾンやアンデスの先住民の方たちと付き合いがあったんですけど、日本人と非常に似ているんですね。すると『この人たちは一体、いつ、どのように、なぜここまでやってきたのだろうか』ということを知りたくて、それで始めたのが“グレートジャーニー”で、逆ルートで始めたのは、南米で『この人たちはどこから来たんだろうか?』と思ったからなんですね。

 それが終わったころには、世界を歩いて30年以上になっていたんですけど、色々なところで日本のことを聞かれるんですが、『日本のことをあまり知らないな』と気づいたんです。当然、生活をしていたし、山に登ったり、川を下ったりしているので、全然知らないということはないんですけど、山に登っていても、世話になることはあっても、山麓の人と交流を深めたり、川沿いの人たちとゆっくり話を聞いたりすることはなかったんですね。そこで、『自分の足下でもある日本を見直そう』と思って、人は日本列島にどういうルートでなぜやってきたのかを知るための旅をしようと思ったんです。そこで、色々と調べてみると、色々なところから入ってきているんですよね。そういう色々なところから集まってきて、できたのが日本人なんですね。なので、最初は『日本人が来た道を歩こう』と思っていたんですが、それは間違いなんですよ。なぜだか分かりますか?」

●それは来たルートがたくさんあるからということですか?

「そうじゃないんです。今回の新グレートジャーニーは、“日本人がやってきた道を辿る”というサブタイトルにしようと思ったんですが、改めて考えてみたらおかしいんですよ。なぜなら、そういう風な言い方をすると、日本人のグループがアフリカにいて、それが日本にやってきたというのであれば、そういう言い方をしてもいいんですが、そうではなくて、色々なところからやってきて、混血したのが日本人で、“日本”という名前は7〜8世紀ぐらいになってから使い始めたんですよ。なので、“日本人がやってきた道”ではなくて、強いて言えば“日本人の祖先がやってきた道”とか“日本列島にやってきた先史時代の人たち”といった言い方が正しいんですよね。」

関野吉晴さん

●そういう風に聞くと、日本人なのに知らないことばかりですね! 色々なルートで日本に来たということですけど、具体的にはどういったルートがあるんですか?

「たくさんある中で、主要なルートはあるだろうと推測されていて、シベリアから来た人が来やすいのが、サハリン経由で北海道に入るという北方ルートです。そして、ヒマラヤ山麓からインドシナに一度下がってから北上して、中国、朝鮮半島を通って入るというルートと、中国まで行ってから北上してサハリンに行って北海道に入るというルートで行った人もいるだろうと言われています。それが南ルートです。このルートは氷河時代に使われていたので、今よりも涼しかったんですよね。

 そして、今、武蔵野美術大学で展覧会もやっている“海のグレードジャーニー”というのは、海上ルートです。昔はインドシナとインドネシアとマレーシアがくっついていて、スンダランドという大陸があったんですね。そこから中国、朝鮮半島と陸路で行く人もいたんですけど、『インドネシアからマレーシア、フィリピン、台湾、沖縄という、海から来た人もいるはずだ』と思ったんですね。でも、これを『そんな危ないルート、渡る人なんていない』と、否定する人も多いんですよね。でも私は、いると思っています。なぜなら、一年で来るとか、そういうことじゃないんですよ。何世代もかけて日本に来るので、一世代で一つか二つの島を渡ればいいので、一番いい条件のときに渡ればいいんですよ。気候は急変するときもありますけど、落ち着いている時期ってあるんです。特に台風一過など、荒れた後は、必ずいい天気になるので、そういうときに動けばいいですよね。」

必要なモノは自然からもらって作る

※現在、武蔵野美術大学で開催中の「海のグレートジャーニー展」でも明らかにしていますが、今回、海上ルートの旅をするにあたって、昔ながらの方法で船を手作りしています。なぜそんな方法をとったのか、お聞きしました。

奥が「パクール号」手前が「縄文号」
奥が「パクール号」。全長11メートル。
手前が「縄文号」。全長6.8メートル。実物は意外に大きく見えた

「これまでのグレートジャーニーでも縛りはあったんです。先史時代の人が旅をしたときを再現しようとすると、当時の人たちは狩猟採集民族なので、狩猟採集をしながら旅をしたら、武器を持っていることになるので、すぐ警察に捕まるので無理なんですが、できる限り再現するとしたら何かと考えて、最初のグレートジャーニーで旅した北方ルート・南方ルートでは、『自分の力だけで進もう』という縛りを作りました。
 でも、最後の海のルートは『それだけじゃあ面白くないだろう』と思ったんですね。なぜなら、どういう船で来ればいいのかが難しかったんですよ。例えば、その時代にインドネシアで作られた古い船があれば、それを再現すればいいんですけど、あそこは熱帯なので、木が腐ってしまうんですよ。なので、船は見つからなかったんですけど、7000年前の縄文カヌーはあったんですね。ただ、それで日本に来たのではないんですね。それは縄文人という、日本にやってきて、新しい文化を作った人が作ったんです。

 そこで、どうしようかと考えたときに、その時代でカヌーやイカダを作っていた人は、何か特別なコンセプトを持って作っていたはずなんですね。それは何かというと、“必要なものを自然から全部取ってきて、自分たちで作る”ということなんです。それは、アマゾンでは今でもやっていて、昔はみんなそうだったんですね。さらにすごいのが、それでいて、自然を壊さなかったんです。なので、今回の旅は、そういうコンセプトでカヌーを作って日本にやってこようと思ったんですね。これまでは学生や若者に『一緒に行かせてください!』とよく言われていたんですけど、『若いうちは一人で旅した方がいいよ』といって、連れていったことがないんですが、今回はチャンスだと思ったんですね。なぜなら、ここは造形大学で、“造形大学=モノづくり”の大学ですよね? モノづくりの大学なのに、モノを作るのに自然から素材を取ってきて自分で作るということを誰もやっていないんですよ。木工や彫刻でも、木を買ってきちゃうんですよね。だから、みんなに呼びかけたときに『手伝ってくれ』と言わないで『チャンスを与えてあげるから、やってみないか?』って言ったんです(笑)。」

海のグレートジャーニー展海のグレートジャーニー展

●うまいですね!(笑)

「実際そうなんですよね。やらなくても別にいいんですけど、何かモノづくりをしていく上で、何か違う見方や考え方、発想とかができてくると思うので、一緒にやっていこうと思ったんです。
 最初は、石器か貝の斧で木を切ることを考えたんですけど、『太平洋を渡ってくるんだから、安全な船を作りたい』と思って、色々考えたんです。インドには3000年前には既に鉄があったんですね。インドネシアとインドは非常に結び強くて、インドネシアに最初に入ってきた大型の宗教はヒンドゥー教なんですね。それはインドから入ってきたということもあって、非常に密接な関係にあるので、『3000年前に使われていてもおかしくない』と思ったので、鉄はいいだろうと勝手に決めちゃいました。

 ただし、コンセプトの“材料は自然から取ってくる”ということは守ることにしました。最初、鉄鉱石をどこかでハンマーで割って取ってきて、鉄鋼会社に手伝ってもらおうと思ったんですけど、日本にはまだたたら製鉄が残っているということに気づいたんですね。なぜかというと、日本刀は未だに砂鉄から取れた鉄でないと作れないんですね。それなら、どこかでたたら製鉄はやっているはずだから、刀鍛冶の人に会いにいって、話をしたら『うちが手に入れているのは出雲なんだけど、東京工大にたたら製鉄を教えている先生がいるから、教えてくれるよ』といわれて、その先生を紹介してもらって、武蔵野美術大学に釜を作ってやりました(笑)」

●ちょうどいいものがあったんですね(笑)。

「いや、作ったんですよ。その前に永田先生という、今は東京芸術大学の先生をやっているんですけど、その先生に『何キロの工具を作るんだい?』って聞かれたので、斧とかナタとかノミとかが必要なので『5キロです』と答えたら、『5キロなら、120キロの砂鉄を集めてください』と言われました。」

●すごい量ですね!

「『ただ、チタンとか硫黄といった不純物が多いから、江ノ島と湘南はダメですよ。九十九里や利根川の川原でいいから、そこで120キロ取ってきてください』といわれて、何回か通いました。泊りがけで行ったこともあります。結果的には150キロ集めました。
 次に『炭が必要だから、300キロ焼いてきてください』といわれました。実は学生たちと一緒に、炭焼きをドラム缶でやったことがあるんですね。でも、300キロって大量なので、ドラム缶じゃ間に合わないんですよ。でも、日野市にある多摩動物公園には釜があるので、この辺りで焼けると思っていたら、この辺は杉とヒノキだらけで、それらは脂分が少ないし軽いので、たたら製鉄に向いていなくて、雑木は高いしバラバラにあるので、集めるのに時間がかかりすぎるんですよね。岩手まで行けば松があるんですけど、松はたたら製鉄に向いているので、岩手まで行って、取ってきて、300キロ焼いたんですけど、そこで分かったのが、3トンの松が必要だったんです。5キロの鉄の道具を作るのに、3トンの木を伐採しているんですよ。だから、鉄を作ることだけでも、これまでの文明の発展の裏には、いかに木を伐採してきたのかということが分かるし、関東の植生も分かるんですよね。
 こういう風に縛りを付けることで、そうしないと分からないことに気づけるんですよ。僕は、気づくということをすごく大事にしていて、『色々なことに気づいてくれ』と若者に言っているんですが、こういう風にしていけば、言われなくても気づいていくんですよね。」

九十九里浜で集めた砂鉄(右)と岩手の松で作った炭(左)
九十九里浜で集めた砂鉄(右)と岩手の松で作った炭(左)
船作りに使ったインドネシアの道具
船作りに使ったインドネシアの道具
三角の帆も一から手作り!
三角の帆も一から手作り!
船の上で使っていた調理用具と薪
船の上で使っていた調理用具と薪

自然は格が違う!

※およそ7年かけた、日本人の来た道を探る旅「新グレートジャーニー」を終えて、どんなことを感じたのか、話していただきました。

「改めて感じたことは、自然って、人間にはどうしようもできないということですよね。今回の旅は風まかせ潮まかせの、自然の動きに任せるしかない旅でしたけど、『先史の人たちは何を考えて旅をしていたんだろう』ということを、いつも考えていたんですね。それでも、彼らは『自然には敵わない、格が違う』と思っていたと思うんですね。

 逆に言えば、“自然は神様”という考え方になるんですね。太陽や月はなくてはならないものだし、昔はコンパスもなかったと思うので、星もなくてはならないものですよね。だから、台風がきたら、壁を作るとか、家をしっかりするといった防御をしようとするけれど、結局は祈るしかないと思っていたと思うんですね。だから、彼らにとって、自然って歯が立たない存在だけれども、なくてはならないものなんですよね。これって、ヒンドゥー教の神様と似ていて、ありがたいものだけど、すごく意地悪だったり、凶悪だったり、いたずら好きだったりするので、自然って、きっと人間的な神様なんだと思います。
 それに対して、彼らは謙虚に接したと思うんですよね。命の恵みを与えてくれるし、台風がきて、作物が全てやられたら『自分たちが悪いことをしたに違いない』と思ったりして、人間と自然の関係が今とは違ってたと思うんですね。今は“自然と共生する”という考え方ですけど、共生というと、立場が対等になるので、彼らは共生とは考えてなかったんですよね。台風や地震がきたら、やれることはやるけれど、後は待つしかないといった関係じゃないかと思うんですね。これからもそうじゃないかと思うんですね。作物を無理矢理作り出すとか、動物を生み出すといった、自然界には本来ないものを作り出すということって、あまりよくないんじゃないかなと思います。」

※関野さんの今後の旅の予定についてもお聞きしました。

「考えないようにしています(笑)」

関野吉晴さん

●そうなんですか!?(笑)

「やりたいことはたくさんあるんですね。あと、自分の足元をもうちょっと見たいと思っています。アフリカから日本にやってきた人々を追うっていうのは、ダイナミックな動きじゃないですか。その他にも、自分が生まれたのは東京の墨田区の下町なんですけど、そこの職人さんと付き合ったり、自分のDNAを調べたら、母方のDNAが礼文島の縄文人に近いんで、縄文人に興味を持ち始めて、こういう言い方は失礼かもしれないですけど、そういう生活に近いマタギの人たちと一緒に熊狩りにいったり、鷹匠の人と付き合ったり、アイヌの人と付き合ったりして、“日本”というものもちゃんと見てみたいという思いもあるんですね。
 今まで色々な人と接してきましたし、特に南米は、来年また行こうと思っているんですが、40年の付き合いになる先住民の家族がいるんですね。そういう人たちともう一度接したいですね。アマゾンやアンデスは、ずっと通い続けたんですけど、グレートジャーニーが始まったら、なかなか行くことができなくなってしまったので、また通いたいし、グレートジャーニーで出会った人の中で、もう一度会いたい人がいっぱいいるんですよね。

 だから、これから新しい旅を始めるというのもあるんですけど、『あの人どうなったのかな?』と気になる人がたくさんいるので、それも見てみたいんですよね。なので、やることはいっぱいあります。」

関野吉晴さんと長澤ゆき
 

YUKI'S MONOLOGUE 〜ゆきちゃんのひと言〜

 実は、私は以前から関野さんのファンで、どうしてあんなに凄い旅を成し遂げられるのか、とても興味があったのですが、関野さん曰く"成功するまで続けるから"失敗がないそうです。諦めない前向きな気持ちで、長く困難な旅を乗り越えてこられたんですね! お話伺って、ますますファンになりました。

INFORMATION

関野吉晴さん情報

「海のグレートジャーニー展」が開催されている武蔵野美術大学の図書館
「海のグレートジャーニー展」が開催されている武蔵野美術大学の図書館

「海のグレートジャーニー展」

 探検家・関野吉晴さんが現在、武蔵野美術大学の図書館で開催中の「海のグレートジャーニー展」。これは日本人の来た道を探る旅「新グレートジャーニー」の中から、海上ルートの旅の展示です。道具作りやインドネシアでの船作り、航海の様子を撮った写真パネルほか、実際に作った道具や船の上で使っていた調理器具なども展示。また、図書館横の屋外スペースに、実物の縄文号とパクール号が展示されています。

◎開催期間:9月30日(金)まで(休館日は毎週日曜日と祝祭日)
    (但し、8月28日(日)〜9月4日(日)までは休館)
◎会場の開館時間:午前9時〜午後8時まで(土曜日は午後5時まで)
◎入場:無料
◎最寄り駅:西武国分寺線・鷹の台駅
◎お問い合わせ:関野吉晴さんのホームページ

今週のオンエア・ソング

オープニング・テーマ曲
「GRACIAS / LARRY CARLTON」

M1. SUMMER OF ’69/ BRYAN ADAMS

M2. 渚 / SPITZ

M3. DO YOU REALIZE? / THE FLAMING LIPS

M4. FAITHFULLY / JOURNEY

エンディング・テーマ曲
「THE WHALE / ELECTRIC LIGHT ORCHESTRA」