2010年11月21日
加藤庸二さんが感じた、日本の島の姿とその魅力
今週のベイエフエム/ザ・フリントストーンのゲストは、加藤庸二さんです。
フォトグラファーの「加藤庸二」さんは、30数年という年月をかけて人が住んでいる日本の島々を巡り、島の風景や伝統・文化・島の人たちの生活を写真に収め、先ごろ「原色 日本島図鑑」という本を出版されました。この本には人が住む島を含め、433の島が掲載されています。
今夜はそんな加藤さんに、島の魅力や印象的だった島のお話などうかがいます。
島はひとつひとつ全然違う!そこが面白い!
●今回のゲストは、先日、新星出版社から「原色 日本島図鑑」を出版したフォトグラファーの加藤庸二さんです。初めまして。よろしくお願いします。
「よろしくお願いします。」
●加藤さんはなぜ、島の図鑑を作ろうと思ったんですか?
「学生時代に初めて南の島を旅したんですね。そのときは、私たちの世代にあった“離島ブーム”のときだったんです。その頃って沖縄が日本に返還される前だったので、鹿児島県のいちばん南のところが、日本の最南端だったんですね。そこに与論島があるんですけど、そこに学生時代に初めて行ったことがきっかけで、日本の島巡りが始まったんです。その与論島に行ったときに、その島に関する情報が何もなかったんですよ。」
●ガイドブックみたいなものはなかったんですか?
「ガイドブックには名前は載っているけれど、内容まで載っていなかったんですね。そのときに『島が分かる本があればいいのに』と素朴に思ったのが、今回の図鑑を作ろうと思ったきっかけだったんです。」
●加藤さんは、写真はもともと撮っていたんですか?
「写真は撮っていました。」
●初めて撮った島の写真って、どんな写真だったんですか?
「陸の写真とかは、写真部として活動をしていた高校生の頃から撮っていたりしていたんですけど、南の島に初めて行って、本格的に写真を撮り始めたのは水中写真だったんですよ。水中マスクを付けて、海の中に潜ると、『その風景を撮りたい』と誰もが思うと思うんですね。」
●私もダイビングをするので、それは思います!
「そうですよね。水の中を見たら、それは別世界の風景ですよね! その風景にカルチャー・ショックを受けました。『この風景は写真にして記録しておかないと』と思ったのと、島に行きたいという思いがミックスされた感じになったんです。最初は、水中写真自体が新しいジャンルだったので、水中写真を撮ることに没頭しました。まだ、水中写真の草分けと呼ばれる人たちが自由に写真を撮っている時代で、キチっとした写真が世の中にあまり流通していなかったような時代だったんです。雑誌でも、水中写真ってごくたまにしか見ることができない時代だったんですね。『それなら、僕がちゃんとした写真を撮ってやろう』と思いまして、それがきっかけで南の島通いをどんどんしていったんです。島の写真を撮ろうと思ったのは、そういうところからきているんですよね。
島って、ひとつだけじゃないですよね? 与論島は、奄美諸島のいちばん南にあるところなので、日本最南端ですよね。最南端の島を見てみると『じゃあ、日本のいちばん北の島ってどんなところなんだろう?』って思ってきたんです。ならば、そのときはまだ学生だったから、お金を貯めて行ってみようと思って、いちばん北にある“礼文島”に行ったんです。」
●結構離れたところに行きましたね(笑)
「これがかなり大変な旅になったんですよ(笑)。そういう風に、南から北に上っていきながら、島をひとつひとつ見ていくと、それぞれ全然違うんですよね。その面白さにどんどん魅かれていきました。」
●南の島と北の島では、どのぐらい違うんですか?
「そこに住んでいる人たちの気持ちの部分がまず大きく違いますね。北の島に住んでいる人たちは、冬に対する備えを考えるので、身構えますよね。1年間の生活がキチっとこまめに区切っている人たちが多いです。北の漁師さんは、漁期が決まっているので『この時期はあの魚を獲って、この時期にはこの魚を獲って』という具合に分けているんですね。
これが南の島に住んでいる人になると、そこまで厚着をしなくても1年中過ごせるというところから、気持ち的に開放的ですね。扉とか窓とか施錠しなくてもいいところが南の島には多いですよね。そうすると、気質も開放的で、こちらとしても親しみやすいです。取っ掛かりとしては、南の島というのはすごく楽だと思います。」
●そういうお話を聞くと、同じ日本でも全然違っていて、面白いですね(笑)。
「そうですね(笑)。大きく違うと思います。そういう違いを見ていくと『瀬戸内海にある島ってどういう島なのかな』とか、そういう興味がどんどん出てくるんですよね。そういう連続で、今日まできたという感じですね。」
●それが積み重なって、433という数になったんですね。
「そうですね。」
“南大東島”はワンダーランド!?
●加藤さんは433の島に行ったということなんですけど、いちばん印象に残っている島はどこの島ですか?
「難しい質問ですね(笑)」
●あえてひとつ挙げるとすれば、どこの島ですか?
「全ての島が印象に残っていて、記憶に刻んでいる島ばかりなんですが、好きな島を例として挙げるのであれば、南大東島ですね。」
●南大東島ですか?
「これは沖縄県にある島なんですが、この島は“野生の島”と表現すればいいのかもしれないですね。ワイルドなんですよ。“驚異の島”という表現もできる一面があって、まさにワンダーランドといえるようなところなんです。どういうところが他の島と違うかというと、他の島にはない歴史を持っているんですね。南大東島って台風速報などでよく名前を聞きますよね?」
●確かによく聞きます。
「今は沖縄本島から400キロぐらい離れたところにあるんですけど、元々は4800万年前にパプア・ニューギニアの沖合に、海底火山によってできた島なんです。」
●ということは…?
「島が“旅をしてきた”んです。ひょっこりひょうたん島みたいですよね。」
●すごーい! 島がやってきたんですね! それは火山の運動によって動いたんですか?
「それと、フィリピン海プレートに乗っかって、4800万年の間に1年間に7センチずつ移動してきたんです。それで、今の沖縄から400キロ離れた、あの場所にあるんです。プレートの上に乗っかっているので、今の動いているんですね。」
●そういう島が日本にあるなんて、知らなかったです。
「僕もそのことを知ったときは、『島が動くなんて』と思って、本当にビックリしました。しかも、今のパプア・ニューギニアから現在の南大東島の位置まで、大体3200〜3300キロぐらいあると思うんですけど、その距離を4800万年かけて、7センチずつ動いてきたんですよ。それってものすごいことですよね?」
●すごいことですよね!
「その間に、専門の学者によれば『よくプレートに飲み込まれずに、上に乗っかったまんま移動してきた』と感心するぐらいの、“驚異の島”なんです。沈まないで、今日まであるということって、実に素晴らしいですよね。僕は南大東島が本当に好きで、よく行くんですけど、行くと『そんなに長く生きてきたのか』と思って、地面に頬ずりをしたくなるような島なんですよ(笑)」
●愛おしいんですね(笑)。今その島には人って住んでいるんですか?
「住んでいますよ。1200〜1300人ぐらい住んでいるんですけど、それが不思議なことなんですけど、元々は人が住んでいなくて、110年前に東京の八丈島の開拓をする人たちが、南大東島に移住をしたこと初めて有人島になったんです。そういう歴史もあるんですよ。」
●そうだったんですか。それは興味深い島ですね。
「その南大東島というのは、他の島と一切接しなったので、南大東島にしかない動植物があるんですよ。」
●例えば、どんなものがあるんですか?
「例えば、ダイトウオオコウモリというコウモリとか、ビロウの木など、そこにしかない固有種があるという、非常に珍しい島なんです。」
●そのコウモリって、普通のコウモリとは違うんですか?
「オオコモウリというぐらいなので、羽根を広げると、長さが1メートルぐらいになるんですよ。」
●コウモリってもっと小さいですよね?
「ですよね。大きいから飛ぶのは下手ですよ(笑)。なので、普段は木にぶら下がっているぐらいで、あまり動かないですね。」
●それは、外来種が来なかったから、生き残れた種なんですよね?
「そうなんです。他の島や陸地と接しなかったから、他の種と交配をしなかったし、ダイトウオオコウモリという固有種で今日まできたということですよね。“太古をそのまま残す島”と表現してもいいぐらい、ワンダーランドな島なんですよ。
もうひとつ驚くのが、南大東島には鍾乳洞があるんですよ。この鍾乳洞がすごくて、まるでシャンデリアの宮殿のようなんです。まだ全貌が明らかにされていないんですが、鍾乳洞を探険する人たちによれば、『東洋一の鍾乳洞というものではないんじゃないか』ということらしいんですね。まだ入っていない場所を含めると、何キロにも及ぶ鍾乳洞の道があるらしんですが、その中には、シャンデリアのような、ものすごくキレイな鍾乳石の氷柱がいっぱいあるんですね。今でも入れる場所があって、事前に申し込めば、見学することができる場所が数百メートルぐらいはあるんですが、探検家や学者が入るぐらいの奥深いところは山ほどあるらしいんですね。」
きれいなままの与論島の海
●長い期間をかけて、今回の図鑑を製作されたと思うんですけど、その期間中に「島が変わったな」と感じたことってありますか?
「僕が島を取材して、今年で35年目ぐらいになるんですが、そのぐらい経つと、相当変わりますね。でも、変わっていないものもあるんですよね。『変わったな』と思うところは、島が開発されて、例えば沖縄だと、35年前って日本復帰直後で、国内の資本がどんどん入ってきて、ホテルができたり、海洋レジャーが発展して、賑やかさがでてきたんです。観光地として発展していくというのは、すごくいいことなんですけど、沖縄の土ってもともとは赤いんですが、ホテルの建設のときに、雨が降ったりして、建設現場からその赤土がビーチに流れ込むんですね。そうなると、サンゴが死んでしまって、近くをシュノーケリングしても、面白味のない海になってしまうんですね。そういう場所が意外と多いんです。一度、赤土が積もった海岸って、再生するのがとても難しいんですね。だから、乱開発でホテル・リゾートができたときに沖縄の海がかなり悪くなってしまったんですよね。
そういう流れの中で、与論島はまだ美しい海が残っているんです。環境的にはすごく厳しい島なんですよ。与論島って、サンゴ礁がドーナッツ・リングのように、島の周りを囲っているんですね。だから、島から赤土のようなものが流れ込んでしまうと、島を囲っているドーナッツの部分から沖へ水が出にくいので、1回でも汚れてしまうと、サンゴが二度と再生ができなくなるんですよ。そういうことを知っているから、建設のときに、そういうところに水を流さないように努力をしたんです。そのおかげで、35年ぐらい前から今までの間に、ホテルなどがいくつも建設されたんですけど、赤土のようなものの流れ込みがなかったので、現在もきれいな海のままで残っているんですね。」
●それは地元の方が建設業者の方と相談をしながら進めていったということですか?
「そういうことですね。それと、環境フォーラムなどで『こういうところは、どういう開発をどの程度行なうか』ということを、事前に検討をして、それを重ねた結果じゃないでしょうか。」
島は大事な“アンテナ”!?
●加藤さんがフォトグラファーとして、島に行った際に思わずシャッターを押したくなる瞬間って、どんなときですか?
「僕は船で島に行くんですけど、船が港に着いたら、島の人たちが出迎えていたり、荷物を引き取りにきたりと、色々な人たちがいるんですよね。その風景を船から見ていて『あのおばあちゃんに話を聞いてみたいな』とか『あのおじいさんは、誰かを迎えにきているのかな』とか思いながら、その姿を見るんですよ。それから最後の方に船から下りて、その人たちにできるだけ最初に接点をもつようにしていて、近づいていって、話を聞きつつ、写真を撮っています。島に入ってからの取っ掛かりって、僕の場合は必ず“人”なんですよ。しかも“港”からなんですよね。“港”って、島の人たちにとっては大切な場所なので、島との接点は、まずそこにあると思っているので、まずは港で人を探すことにしています。」
●島っていうと、飛行機で行く方法と船で行く方法があると思うんですが、船で行った方が島の魅力が広がるということですか?
「絶対にそうですね! 飛行機で入ってしまうのもいいんですが、やっぱり船ですね。やっぱり海の上から港に入っていくというのが普通だと僕は思っています。」
●この図鑑を読んだときに感じたことなんですけど、本島から少し離れているからこそ、その島独特の文化が色々あるんだなと感じました。
「そうですね。島は独特なものだと思います。私は島って聞くと、言い方が悪いんですけど、『島って排他的で、入り込みづらいな』と思ったりすると思うんですけど、実は島って、本州を中心に考えた場合、小島って触角みたいなもので、日本に入ってくる文化などを最初にキャッチしたのが島なんですよね、例えば、種子島がそうで、鉄砲が伝来してきたじゃないですか。長崎にあった出島からポルトガルやオランダの文化が入ってきたりしているので、最初はいつも島なんですよ。そういう風に、日本のアンテナの役割を果たしてきたから、島の人たちって、実は排他的ではなくて、最初に文化に触れるから、身構えはあったけれど、それを受け入れたのは島の人たちなんですよね。」
●そういう意味では、島ってすごく重要なものなんですね。
「そうですね。重要ですし、非常に敏感で、懐が深くて、許容力があると思っているんですね。だから、『島って排他的である』というのはおかしいと思います。
僕が日本中の島を回っている最中、何度か『日本の島ってあまり違いがないんじゃないか』と思ったんですね。自分で写真を撮っていて、その違いにげんなりしたときがあったんです。そのときは『ちょっと別なところが見てみたい』と思って、海外の島に行ってみたんですね。南の島に行ってみたし、色々な島に行って、色々なものを見てから、また日本の島を巡ってみると、違いがよく分かるんです。不思議ですよね。」
●そうですね。一度外から見てみると、よく分かるんですね。
「そうなんですよね。」
●ありがとうございました。是非、また島のお話を聞かせてください。
今回のゲストは、フォトグラファーの加藤庸二さんでした。
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