三方を海に囲まれる房総半島に位置する千葉県。
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第110回 館山の海とジャック・マイヨール

2022/8/12 UP!

今回は館山市で30年以上ダイビングスクールを運営、世界的に有名なフリーダイバーのジャック・マイヨール氏が館山に住むきっかけをつくった方にお話をうかがいました!

ジャック・マイヨール氏といえば、伝説のダイバーとも言われていて、リュック・ベッソン監督の映画「グラン・ブルー」は彼の自伝が基になっています。館山市の坂田(ばんだ)というところに別荘をもつほどの親日家だったそう ですがその裏にはあるダイバーの存在があったんです。

館山市でダイビングスクール「シークロップ」を運営されている成田均さんにお話を伺いました。今は、ダイバーとしては第一線を退いて、気ままにダイビングされているそうですが、まずは、ダイビングとの出会い、そして館山との出会いについて伺いました。

成田さん:僕は秋田で生まれて尊敬するダイビングの日本の創始者に近い大崎(おおさき)(えい)(しん)さんという水中カメラマン、兼、世界のクストーさんたちといろいろ付き合いのあった先生の所へ弟子入りして現在に至ってます。健全なスポーツとしてね、やってましたので、トレーニングする場所がないわけですよ。だって泳いでるだけであがれって言われるし。で漁師にあがれって言われると喧嘩するわけにもいかないからあがらざるを得ない。だったらまあ、漁師さんに何か協力して、特例を設けてもらおうって、当然そういうことを考えますでしょう。たまたま先生が知り合いだった平田さんという定置網をやっている漁師さんがいて、そこで挨拶しに来た時に事情を話ししたら「網を見てくれるんだったら、うちの網の周りでね。潜って練習するのは良いよ」と。それで館山に住み着くようになったという、そういうことですよね。

大崎映晋さんというのは、1960年代から活躍された日本の水中撮影のパイオニア的存在の方で、クストーさんというのはダイビングの器材のアクアラングの開発者でもあり、深海をテーマにしたドキュメンタリー映画でカンヌ映画祭のパルムドールやアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した方。つまり、ダイビングの世界において、本当に代表的な方たちとつながりがあったということなんですね。成田さんがダイビングを始めた頃は、漁師さんたちが優先でダイバーの肩身が 狭かったけど、館山の海では、理解してくれる方がいて潜らせてもらえたんですね。

ダイビングは今はメジャーなマリンスポーツですけど、そういう時代もあったんですね。さてそんなご縁で館山にやってきた成田さん、千葉の海の豊かさがつたわるエピソードを教えてくださいました。どれだけ多くの種類の魚の写真を撮影 できたかを競う競技会に参加したのですが、結果はどうだったのでしょうか。

成田さん:88年から1992年までの5年間、10月10日の日に全国一斉にですね、何種類の魚をダイバーが写真に写すことができたかということで。4名のダイバーが、自己責任で何本潜っても構わないということで、それで5年目の1992年にシークロップチームはですね、千葉の海にも関らず全国第2位になりました。203魚種の魚をカウントしまして。ですから、ここの海は見ようによっては特異な海なんですね。外洋にも接しているし、黒潮・親潮も時によっていろいろ変化があるし。それでトップが西表の海洋公園チームで 253種類だったかな?で、2位が我がシークロップチームと、同率2位というのがあって203。第1回1988年の第1回大会に既にわがチームは7位でしょ?だからね全国の。そういう意味で豊かだという事です。

西表の海に続いて全国2位!今から30年前の話だとはいえ、すごい記録ですよね。世界的フリーダイバーのジャック・マイヨールさんは1976年に水深100mを超える素潜りの世界記録を達成、1983年にはその記録を105mに更新しました。ものすごい記録ですよね。そんなジャックさんがなぜ、館山の地に住むことになったのか、そこには成田さんとのつながりがありました。出会いはイタリアだったそうです。

成田さん:素潜りで潜ってゴム銃かスプリングでもって魚をいかに捕まえるかって、そういう世界大会があったんです。結果はまあ、大したことはないんだけど、1969年のとき、その大会にジャック・マイヨールが、日本選手団を表敬訪問してくれたんですよ。まあ、多分実行はできないだろうと。でもなんかきっかけは作りたいということで、日本には、僕の故郷には素晴らしい海があるので、そこを一緒に潜りに行きませんか?って、英文でね、日本語を英文に直してもらって届けたら、意外や意外「グッドアイディア」っていう話になって。それで60万円借りて通訳を雇って11日間の旅を。羽田で帰る時に「いろいろサンキュー」と「クレイジーガイ」と。クレイジーガイですよ。またどっかで会おうって言われて、あの世界のジャック・マイヨールと 旅をしたんだっていうことで60万円も高くはないなと思ってたら、2年後に突然現れたんですよ。

成田さんの故郷、秋田の海に潜るため数日間一緒に旅行をして意気投合したんですが、2年後に突然現れたそうなんです。

フリーダイビングは空気の入ったタンクなどの装備をせずに潜っていく競技なので、常に「死の恐怖」がつきまといます。独自の死生観がある日本の「禅」や「武士道」に、ジャックさんは大きな関心を持っていたので「それなら日本に住んでみれば」と成田さんが、館山に「ジャックスプレイス」と名付けた古民家を用意したことで二人の親交はさらに深まったそうなんです。ジャック・マイヨールさんは、2001年、その生涯を終えていますが、成田さん、実はこれからジャック・マイヨールさんとの想い出を伝えるため の記念館を作りたいと、少しずつ動き始めているそうなんです。

成田さん:「記念館作るぞって、そういういろんな飾るものあるの」とか言われるんですけど、全くないわけじゃない。多少はありますけれども。メッセージ記念館ですから、ジャック・マイヨールが何をしたかったかを僕は伝えたい。それには本当にやっぱり僕たちが要するに子供の頃持ってた夢をね、大人になっても持ち続けられるような、そういうものがこういっぱいあるわけですよ。そういうものを具体化したい。そういうものを伝えたい。そういう記念館です。体験学習ができ、ジャックの生前どういうことをしていたかっていうことも資料を入れるという、そういう記念館ですね。ですから、大きさとか格好にあまりこだわってません。むしろ仲間でみんなで持って手作りという感が強いですね。そのために材木は自分たちで切り出したり、いろいろやってます。

このジャック・マイヨール メッセージ記念館、まだ材木を切り出したところだそうですが、少しずつでも形にして、子どもたち、若い世代に、夢を持つことの素晴らしさと海の素晴らしさを伝え、感じてもらう場所として作り上げたいとおっしゃっています。ぜひ完成の折には訪れてみたいものですね。そして、番組ブログには、成田さんのシークロップダイビングスクールのリンクを貼っておきます。まずは、ジャック・マイヨールの愛した館山の海を知ってみるのもいいかもしれません。

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